はじめに
人生を振り返ってみると、不思議なものである。
大きな出来事よりも、ほんの何気ない一瞬の方が、鮮明に記憶に残っていることがある。
父のバイクの後ろに乗ったこと。井戸のガッチャンポンプ。ヒサノおばあさんが飲ませてくれた梅ジュース。川で船を浮かべたこと。友達と作った野球チーム。教室いっぱいに響いた拍手。
そして、学校へ向かう途中の踏切で、突然、「人間は、なぜ生きているのだろう」と考えたこと。
こうして一つの記憶をたどると、そこからまた別の記憶が呼び起こされる。忘れていたはずの景色や匂い、人の表情までが、走馬灯のようによみがえってくる。
私の人生は、そんな昭和の小さな風景の積み重ねから始まった。これは、私、佐藤信治郎の人生の第一章である。

第一章 舞鶴から始まった私の物語
1959年9月18日、舞鶴に生まれる
私は1959年(昭和34年)9月18日、京都府舞鶴市折原に生まれた。三人兄弟の長男である。父は竹治、母は千鶴子という。
父は京都府舞鶴市真倉に、11人兄弟の長男として生まれた。予科練を経て舞鶴市役所に勤務したが、母との結婚を機に市役所を辞め、炭焼きを仕事とするようになった。その後は大阪へ出て、鋳物工場に勤めるようになった。
母の生い立ちには複雑なところがあった。結婚当時、戸籍上では父親にあたる養父を母が看ていた記憶が私にはある。そうした状況の中で、父は実家を次男に任せて家を出て、母と暮らし始め、やがて私が生まれた。
私の前にも一人子どもがいたらしい、と聞いたことがある。ただ、生まれていたのかどうかも含めて、私自身には詳しいことは分からない。
ふと、自分の名前の「信治郎」を見ると、「もしかすると、自分は二番目の男の子だったのだろうか」と思うこともある。確かなことではない。けれど、自分の名前にも、私の知らない家族の物語が隠されているのかもしれない。
父のバイクに乗って
父は、私をとてもかわいがってくれた。父の生まれ故郷である真倉へは、バイクの後ろに乗せてもらってよく出かけた。真倉の川で泳ぎ、父に背負われながら川魚をとったことを、今でも覚えている。幼い頃の記憶をたどると、最初に浮かんでくるのは、そんな父の姿である。
父は炭焼きもしていた。その場所で遊んでいた自分の姿も覚えている。特に記憶に残っているのが、足でこいで動かすおもちゃの自動車である。小さな自動車に乗って、一生懸命足を動かして遊んでいた。
今となっては何でもない光景かもしれない。しかし、六十年以上の年月が流れても、その場面は私の記憶の中に残っている。それが私にとっての、舞鶴の原風景なのだと思う。
ガッチャンポンプのある暮らし
私が子どもの頃は、今のように何でも便利に揃っている時代ではなかった。
家には水道がなかった。井戸の水を「ガッチャン、ガッチャン」とポンプを動かしてくみ上げて生活していた。いわゆるガッチャンポンプである。決して豊かな家庭ではなかったと思う。しかし、子どもの私にとっては、それが当たり前の暮らしだった。
テレビも、ようやく家庭に普及し始めた頃である。自分の家で十分に見られなかった頃には、大家さんのところで野球を見せてもらった。テレビの中で繰り広げられるプロ野球の世界に夢中になり、巨人軍を一生懸命応援した。プロレスも見た。
『ひょっこりひょうたん島』『鉄人28号』『鉄腕アトム』『ウルトラマン』。新しいものが次々と登場してきた時代だった。私は、まさに昭和という時代と一緒に育っていった。
ヒサノおばあさんと梅ジュース
母自身の生い立ちには複雑なところがあった。実の父母について分からないことも多く、親戚筋に預けられ、養父のもとで育ったと聞いている。福知山の「一福亭」というところにも縁があった。
そんな母の親戚筋に、井上ヒサノさんという女性がいた。私にとっては「おばあさん」のような存在だった。父も母も仕事で忙しかった。そのためか、幼い私はヒサノおばあさんにずいぶん可愛がってもらった。
小学校から帰る途中、よくおばあさんのところへ寄った。そこで飲ませてもらった梅ジュース。近くの川で船を浮かべて遊んだこと。今振り返れば、それは何でもない日常だったのだろう。しかし、その何でもない時間の中に、子どもの私が感じていた安心や温かさがあったのだと思う。
瀬野先生を見つめていた一年生
小学校に入って、私にとって「先生」という存在もまた初めての体験だった。担任には瀬野先生という先生がいらっしゃった。
給食の時間になると、先生がどんなふうに食べるのか、パンにバターをどうつけるのか。私は先生の一挙一動を、なぜかとても興味深く、楽しく見ていたことを覚えている。
もちろん、優しいだけではなかった。怒られると、頭をゴリゴリされたり、指をパチンとされたりすることもあった。廊下に立たされた記憶はないが、子どもの私には先生の厳しさも十分に伝わってきた。
今振り返ると、先生の何気ない仕草まで覚えていることがおかしいようでもあり、懐かしい。見るもの、聞くもの、初めて触れるものの一つ一つが新鮮だった小学校時代。その中で「先生」という大人の姿も、私の心に残る風景の一つになっている。
「しんにゃん」とスターズ
小学校では、友達がたくさんいた。みんなからは「しんにゃん」と呼ばれていた。
私は昔から、人と争うことがあまり好きではなかった。誰かに勝つことより、みんなと仲良くすることの方が自分には合っていた。
小学四、五年生の頃、仲の良い友達と自分たちの野球チームを作った。名前は「スターズ」。私はキャッチャーで、背番号は2番、打順も2番だった。
勉強が特別によくできる子どもだったわけではない。けれど、仲間と一緒に何かをすることは大好きだった。振り返れば、人を集めて一緒に何かをするという、後の自分につながるものが、この頃から少しずつ芽生えていたのかもしれない。
ある日、突然「佐藤信治郎」になった
小学校時代の大きな出来事の一つが、小学四年生の頃のことである。私たち家族は、家族養子という形で佐藤家に入った。父と母、私、そして弟と妹。家族全員で佐藤家に入ったのである。
それまで私は「迫田信治郎」だった。それが「佐藤信治郎」になった。
当時の私は、家族養子というものの意味を十分理解していたわけではない。ただ、「うちの家族は佐藤家に入ったんだ」というくらいの認識だったと思う。名字が変わり、それまで知らなかった親戚が突然自分の周りに現れた。子どもの私には不思議な感覚だった。
今になって振り返ると、これは私自身の「家とは何か」「家族とは何か」ということにもつながる、大きな出来事だったのだと思う。
踏切で考えた「人間はなぜ生きるのか」
小学生の頃の記憶の中に、一つだけ少し変わった場面が残っている。自宅から学校へ向かう途中に踏切があった。
ある日、その踏切で電車が来るのを待っていた。「カン、カン、カン、カン……」。警報機が鳴っている。その音を聞きながら、なぜか突然、私は思った。
「自分の人生って、何なんだろう」
そして、「どうして人間は生きているんだろう」と。
まだ小学生だった。当然、答えなど分からない。やがて電車が通り過ぎ、遮断機が上がった。私はまた学校へ向かった。それだけの出来事だった。しかし、なぜか六十年以上たった今でも、その踏切の風景を覚えている。
母は信仰を持っており、仏壇に向かって熱心に祈っていた。私も母について集まりに行くことがあった。当時の私は、信仰について深く考えていたわけではない。ただ母が一生懸命やっているものとして見ていた。
それでも、踏切で「人間はなぜ生きるのか」と考えたあの瞬間は、後の私が人生や人間について考えていく、その小さな出発点だったのかもしれない。
『うるわしのソレント』と拍手喝采
私は音楽が好きな少年でもあった。箒をマイクの代わりにして、歌手になったつもりで歌ったこともある。
小学五年生の頃、音楽の授業で縦笛の試験があった。私は、みんながあまり吹かない曲に挑戦した。『うるわしのソレント』である。
一生懸命練習し、試験の日にみんなの前で演奏した。曲を吹き終わった瞬間、教室から大きな拍手が起こった。拍手喝采だった。先生からは「佐藤さんのご両親は音楽家なんですか?」とまで言われた。
嬉しかった。本当に嬉しかった。「練習すれば、自分にもできるんだ」と思った。
六年生でもう一度試験を受けたときは、前回ほど高い評価にはならなかった。だからこそ、自分で「これだ」と思ったことに一生懸命取り組むことの大切さを感じた。あの教室で受けた拍手は、私にとって最初の「成功体験」の一つだったのかもしれない。
ビートルズとの出会い
もう一つ、音楽で忘れられないのがビートルズとの出会いである。
それまで洋楽をそれほど聴いていたわけではなかったが、友達の家でビートルズのアルバム『オールディーズ』を聴いた時、その音楽は衝撃的だった。今まで聴いたことのない音の世界に触れ、それ以降、私は夢中になった。
やがて、ビートルズの曲は、知らない曲がほとんどないと思うほど聴き込むようになった。小学生の私にとって、音楽の世界が一気に広がった出来事だった。
初めての選挙
五年生から六年生になる頃、もう一つ大きな経験をした。児童会の選挙である。
私は、自分から議長候補に手を挙げた。初めての選挙だった。そして、当選した。
児童会の議長になった私は、みんなの前に立って司会をしたり、会を進行したりするようになった。決して最初から上手だったわけではない。ただ、一生懸命だった。
人前に立つ。自分の言葉で話す。みんなの意見を聞きながら会を進める。そうした経験を通して、少しずつ度胸がついていったのだと思う。
後の人生で、私は人前で話したり、司会をしたり、多くの人と関わったりするようになる。その原点をたどれば、もしかすると、この児童会議長に行き着くのかもしれない。
父の出稼ぎ先と、初めてわが家に来た車
小学生の頃、父は大阪へ出稼ぎに行っていた。万博へ行った時には、父の働いていた場所に泊まったこともある。父は鋳物工場で働いており、とにかく強烈な匂いがしたことを覚えている。
子どもながらに、「お父さんは、こんなところでよく毎日働いているな」と思った。その職場の雰囲気や匂いは、今でも記憶の中に残っている。
その頃、父が中古の車を買ったことも大きな出来事だった。かなり古い車だったと思う。東京だったかどうか記憶は定かではないが、遠くから父がその車を運転して帰ってきた場面を覚えている。
わが家に初めて自分たちの車が来る。そのことが、子どもの私にはたまらなく嬉しかった。今の感覚では一台の中古車にすぎないかもしれない。しかし、当時の私にとっては、暮らしが少し新しい世界へ進んだように感じるほどの出来事だった。
万博で見た「未来」
昭和という時代は、子どもの私にさまざまなものを見せてくれた。大阪で開催された万国博覧会にも、小学生の頃に二度行った。
数あるパビリオンの中でも、私の心を最も強く捉えたのが三菱未来館だった。アメリカ館など有名な展示もあったが、私にとっては三菱未来館の映像の素晴らしさが格別だった。
目の前に広がる「未来」の世界に、ただ驚くだけではなく、これから先には何か素晴らしい時代が待っているのではないかという希望のようなものを感じた。
大勢の人。見たこともない建物。世界中から集まった文化や技術。子どもの私にとって、そこには未来そのものが広がっているように感じられた。見るもの、経験するものの中で心を動かされたものが、ずしんと自分の中に残る。あの時に受けた衝撃は、今でも万博の記憶の中心にある。
テレビの向こうで起きていた大事件
一方、テレビからは社会を揺るがす出来事も飛び込んできた。特に記憶に残っているのが、連合赤軍事件、そして浅間山荘事件だった。
テレビ画面に映し出される出来事を見ながら、子ども心にも大きな衝撃を受けた。テレビは、夢や希望だけでなく、自分の知らない社会の現実も伝えてくれる窓だった。
高校野球に夢中になって、あわや……
野球好きだった私は、高校野球にも夢中になった。ある日もテレビで試合に見入っていた。ところが、野球に夢中になり過ぎてしまったのだろう。気がつけば、家がちょっとしたぼや騒ぎになっていた。今だから笑って話せるが、そのときは大変だった。
また、高校野球を後楽園で見た時にも、大変感動した。あまりにも美しい球場に驚いた。そして、そこで食べたカレーライスが本当においしかった。その時、私は福神漬けというものを初めて知った。
好きなことには夢中になる。周りが見えなくなるほど集中する。そんなところも、すでに子どもの頃からあったのかもしれない。
1750メートルを泳ぎ切った日
小学校六年生頃だったと思う。プールで平泳ぎを続け、1750メートルを泳いだことがある。
25メートルプールだったから、今計算すれば70本、つまり35往復になる。子どもの私は回数など意識する余裕もなく、ただひたすら泳ぎ続けていた。
一時間近く泳いでいたように記憶している。プールから上がった時には、体から力が抜けてしまったような強い疲労感があった。それでも、「自分はここまで泳いだ」という達成感は大きかった。
音楽の演奏、児童会の選挙、そしてこの長距離水泳。振り返れば私は、何かに挑戦して最後までやり切った時の喜びを、小学生の頃から少しずつ身体で覚えていったのかもしれない。
第一章を終えて ― あの少年は、今の私につながっている ―
こうして幼少期を振り返ってみると、それまでバラバラだった記憶が、不思議と一本の線になっていく。
人と争うより、仲良くしたかった少年。友達と「スターズ」を作った少年。踏切で「人間はなぜ生きるのだろう」と考えた少年。『うるわしのソレント』を一生懸命練習して、みんなから拍手をもらった少年。そして、自分から児童会議長に立候補し、人前に立ち始めた少年。
それらはすべて、今の私とは無関係な昔話だと思っていた。しかし、こうして文章にしてみると、そうではない。
今の私は、あの頃の私の続きなのだ。
舞鶴で過ごした日々。家族。友達。おばあさん。野球。音楽。父が働いていた工場の匂い。万博で見た未来。そして、幼い心に生まれた「人生とは何だろう」という問い。
一つ思い出すたびに、また一つ、新しい記憶がよみがえってくる。自叙伝を書くということは、過去を記録するだけではなく、自分の人生をもう一度訪ね歩くことなのかもしれない。
そのすべてを抱えながら、少年・佐藤信治郎は、やがて中学生になっていく。私の人生の物語は、まだ始まったばかりである。
――第二章へ続く。